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ポルトガル便り・34便  卓球にまつわるお話

  

  10月にスイスのローザンヌに行って、国際卓球連盟(ITTF)の付属博物館を訪ねました。日本に居る私の従姉(上原久枝・89歳。武蔵野市吉祥寺で長年卓球場を経営していた)が、その博物館を訪ねると聞いて、現地で合流して一週間を一緒に過ごしたのです。
 ところで皆さんは荻村伊智朗という人を覚えていらっしゃいますか? 日本の卓球界が世界を制覇していた1954年(S29)〜1965年(S40)の間、日本の主力選手として、又日本代表チームの監督として活躍した人です。かれは選手生活を終えた後にも後進の指導に力を注ぎ、更にはITTFの会長(1987~1994年)として世界の卓球界の発展に尽くしました。1970年の日中ピンポン外交・1991年に韓国と北朝鮮が南北統一チームを作って世界卓球選手権千葉大会に参加した事などは、彼の尽力が大きな力となって実現した事なのです。
 そこで上原久枝に話が戻ります。荻村伊智朗は都立西高3年生の時に、オープンして間もない武蔵野卓球場に顔を出し、それ以後ずっと此処を根城として選手として成長していったのです。荻村が日本の代表選手として世界大会に最初に参加したのは1954年の事なのですが、参加選手は自分で80万円の渡航費用を手当てする必要がありました。当時の日本はまだ貧しく、一般のサラリーマンの平均年収が10万円に満たない時代ですから、

荻村個人ではとても用意できる金額ではありません。

久枝とその卓球場の仲間たちは街頭募金や有料の模範試合などを開き、なんとかそのお金を集め荻村の世界大会参加を実現に漕ぎつけました。そして荻村は見事チャンピオンに輝きそれ以降の彼の活躍に繋がっていったのです。又この卓球場は50年を越える長い間、地域の青年達の活動の場として大きな役割を果たして来ました。そしてそのOB・OG達が荻村伊知朗の“智“と上原久枝の“久”をとって智久会という会を作り、“おばさん”と皆から慕われる久枝を中心に、昔卓球を通して青春を共有した人達が集まっています。全国から毎年100人近くの人が集まり、旧交を暖めるそうです。
 久枝には子供が無く・夫も兄弟もすでに亡くなっているので、本来は天涯孤独ともいえる境遇なのですが、この智久会のメンバーとその家族とが、まるで久枝の家族のようにして日常の生活や今回の旅行のような行事をサポートしています。卓球場を閉じて家を売却する事・体調を崩した時の支援・長年の家財を処分して引越しをするなど、どれをとっても大仕事ですが、メンバーの人達がチームを作り分担をして実現してくれました。
 たとえば彼らはこんな風に動いています。上原の健康に少し不安が出てきた時に何人かが話し合い、「これは食生活に問題があるに違いない。」という結論が出ました。普通でも一人暮らしだと食事は手抜きになる事が多いと聞きますが、従姉の場合は転んだ為に暫らく身動きが不自由になり食生活にまで影響が出てしまいました。そんな時、或るメンバーの家の近くに老人ホームが新しく出来る事が判り、調べたところ条件も悪くない。早速最上階(8階)の眺めの良い部屋を申し込みました。三鷹の駅の近くなのですが、天気の良い日には富士山も見えます。近くにメンバーも住んでいるので、何か手が必要な時にも安心が出来る。ところが“おばさん”は「老人ホームなんて嫌よ。」と話に乗ってこない。するとメンバーの人達は片方ではいろいろと知恵を絞り“おばさん” の説得をする。もう片方ではお金を工面して申し込みをする。申し込みの時点では未だ家が売れていないので、1千万円を越えるお金をメンバーの人が立て替えて申し込みをしたそうです。幸い家も売れ・立て替え金も戻り・“おばさん”もホームの住み心地にほゞ満足し・食生活が改善され健康状態も飛躍的に良くなり、今回長年の願望だった卓球博物館への旅行を実現することが出来ました。
 とは言っても89歳のお年寄りに一人で欧州旅行が出来るわけではなく、一方応援する人達には時間的な制約が多いので、今回は行きと帰りとを違う人が分担して同行したのです。実はメンバーの一人がスイスのITTFで働いており、その人が中心になってこの旅行が計画・実行されました。彼女が一時帰国で日本に居て又スイスに戻る時に久枝と同行して、スイス滞在中のすべての行事を取り纏めてくれました。そして帰路は他の人が迎えに来て一緒に日本へ戻ったのです。更には寒い所へ行くのだからと、当時は小学生で今は30歳ぐらいの人達何人かがお金を出しあって、軽くて暖かいコートをプレゼントしてくれたそうです。
  武蔵野卓球場40周年の記念誌に寄せて荻村が作った詩は、次の言葉で始まっています。

     天界からこの蒼い惑星の 

     いちばんあたたかく緑なる点を探すと

     武蔵野卓球場が見つかるかもしれない。

若い時に夢中になって卓球に没頭し、そこで自分を支えてくれる人を持てたので、このような発言になったのでしょう。荻村伊智朗だけでなく智久会の沢山のメンバーが“ おばさん”を慕う背景には、スポーツに打ち込む青年に対する久枝の一貫した愛情と貢献、そしてそれに応える人達があり、それがこのように今の世の中では類を見ない暖かい人間関係となっています。
 メンバーの一人はこんな事を言っていました。「上原さんと荻村さんに会う事がなかったら、僕なんか街のチンピラになっていたと思いますよ。」 一方、上原久枝の方はこんな事を言っています。「最近、卓球場の子がみんな立派な大人になってしまって、世話をする人が居なくて張り合いがないのよ。」

寄贈した本に署名する上原久枝

 今回の便りに若し関心を持って頂けるようでしたら、下記の本を是非読んでみて下さい。荻村伊智朗と上原久枝、そしてその仲間達の交流が生き生きと書かれています。

 城島充著 「ピンポンさん」 講談社

今回のスイス滞在中には、葡萄の木の紅葉と初雪のアルプスが楽しめたし、地元の方々との食事会など楽しい事が沢山ありました。しかしハイライトは卓球博物館の訪問でした。長い間の人生を振り返った久枝は溢れる涙が止まらず、本当に感激するひと時でした。
  2008年11月 【 征二 】

 
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